サトルの隠れ家

サトルのヨタ話です!

GIVE&TAKE

今日も朝から「めんどくさいなぁ」と思いながら、のんびり起床した。

何がめんどくさいのか分からない。

 

でも、とりあえず、めんどくさい。

 

生活の中に夢中になれるものが無いことが原因かもしれないけれど、夢中になれるものを探すこともめんどくさい。

そして、今までの経験上、夢中になれることって、意識的に夢中になるものじゃなくて、気づいたら“夢中になっていた”と言うことが多い。

 

結局無理に夢中になろうとしたり、興味を持とうとしたりしても続かないし、心のどこかで、「これ違うなぁ・・・」と思いながら過ごすことになる。

夢中になれるものなんて別になくてもいいと思う。

興味なんて狭くていいと思う。

 

今の世の中には、夢中になれるものが無い人、興味の範囲が狭い人のことを揶揄する風潮があるような気がする。今の世の中じゃない、過去の世の中がどうだったのかは知らないんだけれども・・・そして未来がどうなるのかもわからない。

 

なんだか、他人に対する許容範囲が狭くなっている気がする。

一人一人の余裕がなくなってきているのかな。

余裕があるとはどういう状態なのか、明確にできていないけれど、余裕を生み出す一つの要因は“自分の生活に満足していること”だと思う。

 

満足の基準が人それぞれ違うから、どこまで行けば満足でいるのかは人によって違うけれど、衣・食・住が賄えていれば基本的には満ち足りている状態だと思う。つまり、衣・食・住があるということが満足していることのベースラインだと思う。

 

でも、今のご時世、衣・食・住があっても、そこからさらに過剰な満足を求めようとする。ものを手に入れる、人からの承認、他人への優越・・・

終わりが見えない「欲」のらせん階段をひたすら登っていくようなものだと思う。

 

こんなことを言っている自分も、過剰な満足を求めてしまうことももちろんある。

求めることはいいと思う。それが、生きるモチベーションや、生きがいにつながることもあるかもしれないから。

ただ、自分が過剰な満足を求めているのかもしれない、ということに気づく必要があると思う。

 

自覚無く、過剰な満足を求めると、それがやがて争いにつながるような気がする。

戦争とかそういう大きな話じゃなくて、日常生活に起こる、人間関係において、傷つけあいが発生するということ。

 

余裕があれば、たいていのことはやり過ごすことができると思う。そして、もう少し、与えることができると思う。でも、今はみんなが何かを欲しがっているような気がする。だから、みんな誰かから、何かを得ることに必死。

 

GIVE&TAKEってたまに聞くけれど、今はTAKE過多だと思う。

そして怖いのが、自分がTAKE過多になっているということになかなか気づけないということ。

人間は他人の事にはすぐに気づくけれど、自分のことになると急に気づかなくなる生き物だと思う。

自分もそうだから、偉そうに人の事ばかり言えないけれど、多くの人がTAKE過多になっているかもしれないと自問できれば、TAKEとGIVEのバランスが取れてくるんじゃないか、と思う。

 

まとまりがないのは仕方ない。