サトルの隠れ家

サトルのヨタ話です!

難しい本を読むと理解できない。

そもそも難しい本を読んでいるのかもよくわからない。

 

昔と今とでは「死」と言うものの存在が遠くなっているようだ。

昔は、人の死が身近にあって、自分もいつか死ぬことが分かっていた。

しかし、今は自分が死ぬことは知識としては分かっていても、本当に理解しているかと言うと、なかなか理解している人は少ないのではないかと思う。

自分もその一人だと思った。

いつかは確実に死ぬ。でも、いつ死ぬのかもわからない。死ぬときにどういう形で死ぬことになるのかわからない。穏やかなのか、苦しいのか、痛いのか、老衰か・・・

想像しようとしてもなかなか想像できない。

どうせ死ぬのだからもっと気楽に生きていきたいものだと思う。

小さいことに悩むことなく、気楽に構えて生きていきたい。同じ一日を生きるのならば、悩む一日を生きるよりも少しでも、気楽に、楽しく、満足できる一日を生きた方が良い。

どうやったら、そういう一日を生きることができるのかわからないから、困るのだけれど・・・

とりあえず、可能な範囲で自分に都合よく物事を解釈していくことが必要な気がする。

自分に都合よく物事を解釈するということが、つまりどういうことなのか説明することが難しい。

言葉にできないということは考えていないことと同じこと。

自分に都合よく考えるということは、自分が傷つかないようなとらえ方のことだと思う。ただし、自分が傷つかなければあとはなんでもいいのかと言うと、もちろんそういうわけではない。周囲の人も傷つかないような、とらえ方が大事。つまり、相手を悪者にして自分を守ることは自分に都合の良い解釈の仕方ではないということだと思う。

誰かを悪者にすると、自分もいい気分でいられなくなる。そうすると、一日が重くなる。

人生を穏やかに過ごすことができる人の一つの特徴は、物事のとらえ方が、柔軟であるという事だと思う。

一つの出来事に対して、いろいろなとらえ方ができると思う。その数あるとらえ方の中で、自分も相手も傷つかないようなとらえ方ができる人が、穏やかに生きていける人なのだと思う。

でも、実際には、自分は悪くない、悪いのは相手だと思っている人が多いような気がする。正直、自分もそういう一面がある。

少しでも多くの人が、数あるとらえ方の中でも、自分にとっても相手にとっても都合の良いとらえ方ができるようになれば、もっと生きやすい世の中になるような気がする。

 

まぁ、こんなこと言っても仕方ないんだけれども。

頭の中に出てきたことを、とりあえず書き出したから、文章のつながりやまとまりがないけれど、それでもいいか。

 

とりあえず、メモ代わりとして残しておきたい。